コーヒーの歴史 〜伝説の一粒から世界文化へ〜
「EL ORIGEN コーヒー講座 第2講座」にようこそ、おいでくださいました。コーヒーの奥深さを知れば知るほど沼にハマっていく底無しの世界です。私自身コーヒーに対して自信を持って語れるほどの知識や経験は持ち合わせておりません。ただどこまで行っても終わりのない深い世界では他の方々も同じ気持ちではないのだろうか。私とともにコーヒーの理解を深めていきましょう。
少しでも多くの方に、「コーヒーへの理解を深め、追求し、自身だけの最高のコーヒーを見つけていただきたい。」そんな期待を胸に文字を綴っております。コーヒー通の方々へ、間違った情報を時折お伝えすることがありましたら、ぜひご連絡をいただけますと幸いです。
第一回目に相応しい内容とは、コーヒーの起源について、そして現代に至るまでの時の流れに沿ったコーヒーの形についてです。今後は時代にあわせてより深掘りしていく記事も書きます。それでは早速みてみましょう。
伝説の始まり:エチオピアの神秘
珈琲の起源は伝説に包まれています。最も広く知られている物語は、9世紀頃のエチオピアの高原地帯で、カルディという名の羊飼いが自分の山羊たちが赤い実を食べた後に異常に活発になる様子に気づいたというものです。彼自身もその実を試し、その活力を与える効果を発見しました。この伝説は科学的証明はありませんが、珈琲の故郷がアフリカ東部のエチオピア高原であることは植物学的研究でも裏付けられています。活力を与える効果こそ、まさに皆様が普段から摂取しているカフェインと言われています。
実際、アラビカ種の珈琲はエチオピアの高原地帯が原産地です。現地の人々は何世紀にもわたって、珈琲豆を砕いて動物性脂肪と混ぜた栄養豊富な食べ物として利用していました。また初期には、発酵させた珈琲果実のワイン状の飲料も作られていたと考えられています。
エチオピアでは今日も「珈琲セレモニー」が重要な社会的儀式として行われており、豆を炒り、挽き、煮出す工程すべてが手作業で行われる伝統が受け継がれています。この儀式は家族の絆を深め、来客をもてなす重要な習慣として、珈琲文化の原点を今に伝えています。
アラビア半島での発展:最初の珈琲文化
珈琲が飲料として広く普及し始めたのは、14世紀から15世紀にかけてのイエメンでのことでした。イスラム世界の神秘主義者であるスーフィーたちが、夜通しの宗教儀式で覚醒状態を維持するために珈琲を飲み始めたとされています。彼らは焙煎した豆を水で煮出し、「カフワ」と呼ばれる飲み物として摂取しました。
16世紀には、アラビア半島の重要な港であるモカ(現在のイエメンのアル・ムハー)が珈琲貿易の中心地となり、「モカ・コーヒー」の名はここに由来します。イスラム世界の統治者たちは珈琲の価値を認識し、生きた珈琲の種子の輸出を禁止することで独占的な生産を維持しようとしました。
この時期、アラブ世界では「カフェ」の原型となる社交場所が登場します。これらの珈琲ハウスは「カフワ・ハーネ」と呼ばれ、知識人たちが集まって文学、政治、哲学について議論する場所となりました。珈琲は単なる飲み物を超え、社会的・文化的な現象へと発展していったのです。
珈琲の世界進出:オスマン帝国からヨーロッパへ
珈琲がヨーロッパに到達したのは17世紀初頭のことです。ベネチアの商人たちがオスマン帝国から珈琲を持ち帰り、1615年頃にはヨーロッパで初めての珈琲が飲まれるようになりました。当初はその苦味から「悪魔の飲み物」とさえ呼ばれましたが、1650年代にはイギリス、フランス、オランダなど主要なヨーロッパ諸国で珈琲ハウスが開店し始めました。
特にイギリスでは、珈琲ハウスが「ペニー・ユニバーシティ」(ペニー硬貨で入れる大学)とも呼ばれ、社会的・知的交流の中心地となりました。ロンドンのロイズ珈琲ハウスは後に世界的な保険市場となるロイズ・オブ・ロンドンの前身であり、同様に証券取引所も珈琲ハウスから発展したものです。
フランスでは1672年、パリに初の珈琲ハウス「カフェ・プロコープ」が開店し、ヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家たちの集会場所となりました。この時期、珈琲ハウスは革命的なアイデアが交換される場所として、ヨーロッパの政治的・文化的変革において重要な役割を果たしました。
植民地時代:世界的生産の拡大
17世紀後半から18世紀にかけて、ヨーロッパの植民地主義は珈琲の生産地図を大きく変えました。1616年、オランダ人はイエメンから持ち出した珈琲の苗木をアムステルダムの植物園で栽培することに成功し、1696年にはジャワ島(現在のインドネシア)に最初の商業的プランテーションを確立しました。
フランス人もまた、1720年代にはマルティニーク島に珈琲栽培を導入し、そこからカリブ海地域へと広がりました。1727年には、ブラジルの軍人フランシスコ・デ・メロ・パリェタが外交使節としてフランス領ギアナを訪問した際に、珈琲の種子を密かに持ち出したという逸話があります。これが後にブラジルが世界最大の珈琲生産国となる基礎を築きました。
19世紀初頭までに、中南米(ブラジル、コロンビア、グアテマラなど)やアジア(インドネシア、インドなど)で大規模な珈琲プランテーションが発展し、世界的な商品としての珈琲の地位が確立されました。しかし、この拡大は多くの場合、奴隷制度や搾取的な労働慣行に支えられていたという暗い側面も持っていました。
産業革命と珈琲:大衆化への道
19世紀の産業革命は珈琲の消費パターンに大きな変化をもたらしました。1806年には最初の珈琲エキスがフランスで開発され、1850年代にはインスタントコーヒーの初期バージョンが登場しました。1864年、アメリカ人ジャボー・スミスとアンソン・バードがインスタントコーヒーの特許を取得しましたが、商業的な成功を収めるには至りませんでした。
真の意味でのインスタントコーヒーの商業的成功は、1890年代にニュージーランド人発明家デイビッド・ストランジによって初めて達成され、1901年には日本人の発明家加藤サトリがシカゴで改良されたインスタントコーヒーを発明しました。さらに1938年、ネスレ社がフリーズドライ技術を使用した「ネスカフェ」を発売し、インスタントコーヒー市場を確立しました。
また、エスプレッソマシンの発明も珈琲文化に革命をもたらしました。1884年にイタリア人アンジェロ・モリオンドが最初の商業用エスプレッソマシンの特許を取得し、1901年にはルイジ・ベッツェラがさらに改良版を開発しました。これらの技術革新により、より速く、より濃厚な珈琲を提供できるようになり、特にイタリアを中心としたヨーロッパでエスプレッソ文化が発展することとなります。
珈琲危機と国際協定:20世紀の変動
20世紀前半、世界恐慌やふたつの世界大戦は世界の珈琲市場に大きな混乱をもたらしました。特に1930年代のブラジルでは、価格の暴落と過剰生産により数百万袋の珈琲が海に投棄されるという悲劇も起こりました。
こうした不安定な市場に対応するため、1962年に国際珈琲協定(ICA)が38カ国の珈琲生産国と20カ国の消費国の間で締結されました。この協定は輸出割当制を導入し、価格の安定化を図ることを目的としていました。ICDは1980年代まで珈琲価格の安定に貢献し、多くの生産国の経済を支えました。
しかし1989年、冷戦の終結と市場自由化の波の中で協定は崩壊し、珈琲価格は自由市場に委ねられることになりました。これにより1990年代から2000年代初頭にかけて「珈琲危機」と呼ばれる価格の大暴落が発生し、多くの小規模生産者が生活の危機に直面しました。
この時期、珈琲の大量生産と価格競争が加速し、品質よりも量を重視する傾向が強まりました。一方で、こうした危機は次第に品質と持続可能性を重視する新たな珈琲運動の基盤を形成していくことになります。

スペシャルティコーヒーの台頭:品質への回帰
1970年代から1980年代にかけて、珈琲業界に新たな潮流が生まれ始めました。1974年、アメリカのコーヒー専門誌「Tea & Coffee Trade Journal」でエルナ・クヌットセンが初めて「スペシャルティコーヒー」という言葉を使用し、特別な地域の気候と土壌で育まれた珈琲豆の独特の風味特性を表現しました。
1982年には米国スペシャルティコーヒー協会(SCAA)が設立され、品質基準や評価方法が体系化されました。これは単なる業界団体の誕生ではなく、珈琲に対する考え方の根本的な変化を象徴するものでした。珈琲は「コモディティ(大量生産される商品)」から「特別な風味と品質を持つ専門品」へと再定義されたのです。
1990年代から2000年代にかけて、世界各地でサードウェーブコーヒーと呼ばれる動きが広がりました。このムーブメントは珈琲を単なる刺激物ではなく、ワインのように産地や品種、製法によって多彩な風味を持つ芸術品として捉え直すものでした。産地直接取引(ダイレクトトレード)や透明性のある取引(トレーサビリティ)など、より倫理的で持続可能な珈琲産業を目指す取り組みも広がっていきました。弊社が輸入する際に意識している点も、ダイレkとトレードとトレーサビリティの観点を徹底しております。

現代の珈琲文化:多様性と持続可能性
21世紀に入り、珈琲は世界で最も取引量の多い農産物のひとつとなり、年間約90万トンが生産され、数千億ドル規模の産業に成長しました。グローバル化とデジタル技術の発展により、かつてないほど多様な珈琲文化が世界中で花開いています。
現代の珈琲業界では、以下のような重要なトレンドが見られます:
- 産地の多様化と個性化:エチオピア、コロンビア、ブラジルといった伝統的な産地に加え、パナマ、ルワンダ、中国雲南省など新興の産地が注目を集めています。マイクロロットやナノロットと呼ばれる極小規模の特別生産も増加し、テロワール(土地の個性)を強く反映した珈琲が評価されています。
- 抽出方法の革新:ハンドドリップ、エアロプレス、サイフォン、コールドブリューなど、多様な抽出方法が世界中で実験され、普及しています。また、精密に温度管理ができる最新のエスプレッソマシンなど、ハイテク機器の発展も珈琲の品質向上に貢献しています。
- 持続可能性への注目:気候変動はコーヒー生産に深刻な脅威をもたらしており、一部の予測では2050年までに現在のコーヒー生産適地の約50%が失われる可能性があります。この「コーヒー2050問題」に対応するため、環境に配慮した栽培方法や気候変動に強い品種の開発、生産者の経済的持続可能性を支える取り組みが進められています。
- 社会的責任とエシカル消費:フェアトレード、レインフォレスト・アライアンス、有機認証など、社会的・環境的に責任ある珈琲生産を促進する認証制度が発展しています。また、直接取引を通じて生産者により高い対価を支払う「ダイレクトトレード」の取り組みも広がっています。
日本を含むアジア地域でも独自の珈琲文化が発展し、特に日本の喫茶店文化や精密なハンドドリップ技術は世界的にも高く評価されています。また南米では、過去の植民地時代に持ち込まれた珈琲が今や国の文化的アイデンティティとなり、コロンビアやブラジルなどの生産国は単なる原料供給地から、独自の珈琲文化を育む国へと変貌しています。
珈琲の歴史は、一粒の豆が世界を巡り、文化を形成してきた壮大な物語です。今日、私たちが楽しむ一杯の珈琲には、何世紀にもわたる人々の探求、革新、交流の歴史が詰まっています。そしてこれからも珈琲は、時代とともに進化しながら、人々の暮らしに寄り添い続けるでしょう。
Misionero株式会社が南米の特別なマイクロロット・ナノロットを日本に届けることは、この壮大な珈琲の歴史の中の新しい章の一部となっています。エチオピアから始まり、アラビア半島を経て世界へと広がった珈琲の旅は、今も続いているのです。
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